魚と美脚──川村美紀子『12星座にささぐ』第3回「うお座」 北里義之



 先月の「みずがめ座」公演で、もっとも印象深く、もしかするとこれがダンサーの本質かもしれないと思ったのは、「あるマックスから対極のマックスへと振り切れながら動き、反転をくりかえしていく」という、川村のダンスのヤヌス的な二面性だった。このふたつの極点を、試みに「M衝動」と「S衝動」と呼んだのは、それが彼女の身体のフィジカルな側面からきているように感じられたからなのだが、第3回の「うお座」を観てみると、この二極は、作品のなかでもう少し幅を持ったものとしてあらわれてくるようである。たとえていうなら、ギリシア神話や星座のような敬虔かつ神聖な領域に駆けのぼったかと思うと、愛欲にまみれた地上的な糞溜めのなかに宙天からまっさかさまに墜落するというような。相反する象徴性を高速度で往来するこの運動性は、かつてよく使われた言葉でいえば、「ヘルメス的」性格のものといえる。あるいはもっとシンプルに、川村のダンスや作品が持つ演劇的側面と考えるとわかりやすい。

 Wikipediaからの引用。「【ヘルメース】神々の伝令使、とりわけゼウスの使いであり、旅人、商人などの守護神である。能弁、境界、体育技能、発明、策略、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。その聖鳥は朱鷺および雄鶏。幸運と富を司り、狡知に富み詐術に長けた計略の神、早足で駆ける者、牧畜、盗人、賭博、商人、交易、交通、道路、市場、競技、体育などの神であるとともに、雄弁と音楽の神であり、竪琴、笛、数、アルファベット、天文学、度量衡などを発明し、火の起こし方を発見した知恵者とされた。プロメーテウスと並んでギリシア神話のトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。」歌を歌い小説を書く、川村の才能の多面性は誰もが承知のところ。思うに、これこそ彼女の登場に人々が期待した当のものだったのではないだろうか。そして、この期待は、どこかで彼女の本質にも触れていたように思う。

 前回の手法を踏襲して、「うお座」にも、実在する40代の魚座の女と、50代の魚座の男のカップルが登場する。ムーディーなR&Bなどの音楽をともなって、深夜の阿佐ヶ谷で彼らにおこなったインタヴューが録音で流れる。ダンサーの前口上。「今宵お送りするのは、運命に閉じこめられた魚座の男女のヨタ話である。」現実に存在する男女の人間関係という、おそらくもっとも地上的なものにダンサー自身が対話相手としてコミットしながら、「うお座」は、これまでになく集中的にダンスが踊られた回となった。太腿が丸出しになる茶色のワンピースのうえから首回りを広くとったTシャツを重ね着して、白いソックスをはくというセクシーな衣装に身を包み、背もたれのあるユーロピアンな木の椅子を使って踊るのというのが前半のダンスの基調となり、椅子のうえでエビ反りになると、下半身を丸出しにして最初に片足ずつを、次にそろえた両足をあげるなど、セクシーさをアピールするダンスが展開していった。

 かたや、公演の後半では、椅子を台座がわりにして床にぺったりと腰をおろし、ゴムバンドに何本もの毛糸を結びつけていくという工作作業がはじまった。結び終わると、ホリゾントにあたる縦格子の壁のうえに貼つけてあったニボシの袋を、思い切ったジャンプでむしり取り、そのうちの何本かをムシャムシャ齧りながら、毛糸の先に魚をくくりつけていった。できあがったニボシの冠をかぶったところは、荊冠をかぶせられ、ゴルゴダの丘へと引かれていくニボシの聖者のようだった。立ちあがりしな、椅子のうえに散らばったニボシに喰らいつく。上着を押し下げて脱ぎ、ワンピース姿になると、さらに袋のニボシを上向いた口に流しこむようにして頬張るダンサー。束になって口から突き出るニボシ。いくつかは床にボロボロとこぼれ落ち、生臭い魚のにおいがたちこめる。背後の格子壁に後頭部をつけた川村は、ずるずると力なく床にすわりこむ。ときおり楽器の音をはさみながら流れつづける深夜の会話。



 ダンスであることを大幅に逸脱し、予測のつかない、どう受け取っていいのかさえわからない強烈な身体の場面が連続していった「うお座」公演。頭をふり、肩をふりして、冠からさがったニボシをフラフラとさせた川村は、大きな動きで冠を一気にふり落とすと、下手コーナーに椅子を片づけ、ふたたび踊りはじめた。「うお座」公演では、高速度のアニメーションの動きは封じられたが、そのかわり、公演の前半では、高い棚からなにかを取るようなしぐさをしたり、両手に握ったものを空中に置いていく身ぶりをしたりというように、パントマイム的な動きが前面に出ていた。そもそも身体の各部をセパレートして訓練していくアニメーションには、伝統的にはいまでも文学的に踊られるパントマイムを、解像度の高い筋肉や骨の動きとともに、解剖学的なものに進化/深化させた意味合いがあり、一般的にアニメーションのダンサーは精度の高いパントマイムを踊ることができる。同様にして、文学的な「人形ぶり」は、解剖学的な「ロボットダンス」として進化/深化をとげている。川村のこのダンスも、アニメーションの可能性のひとつと評価できるのではないだろうか。不安定な姿勢を連続していった最後の場面は、魚座の男女とのインタヴュー終了とともにダンサーが床に仰向きに寝転び、そのまま終幕となった。ダンサーの太腿ばかりが、暗闇に白く浮き出た生きもののように生々しく印象づけられた「うお座」公演だったが、一見するとエロチシズムの表現のような場面も、ニボシで冠を作り食い散らかす不可解な場面も、ひとつの宗教的な隠喩を帯びていたように思われる。このあたりが聖俗の境を自由に往来するヘルメス川村の真骨頂といえるだろう。

 「うお座」のテーマを「魚」でイメージ連鎖していった今回の『12星座にささぐ』は、連鎖の一本を、ともに魚座の男女のヨタ話=実録秘話として地上的なものにつなぎとめるとともに、連鎖のもう一本を、中世のフランドル地方で活躍した画家ブリューゲルの寓意画『大きな魚は小さな魚を食う』(1557年、版画)に登場する人間の脚が生えた魚につなげたように思われる。奇怪なイメージにあふれたこのブリューゲルの代表作は、腹を割かれた大魚から流れ出ている中小魚に、「強い権力を持ったものは、弱いものを支配し、破壊することができる」とか、「権力を振り回しすぎると最後には立場が逆転する」という意味に解釈されているようだ。川村が魚とダンスをつなぐために選んだのは、おそらくこの寓意画の左上に描かれている怪物的造形──別の魚をくわえた魚が、白いソックスをはいた人間の脚で歩く姿──に間違いないだろう。超ミニのワンピースで両脚をむき出しにして踊ったことも、頭にニボシを吊り下げた冠をかぶったことも、口からはみ出すくらいにニボシの束をくわえたことも、つながらないものがつながるという生きものの怪物性を、底に秘めた身体的テーマとしてステージに登場させる道具立てだったように思われる。こんなふうに考えると、椅子のうえでエビ反りになるストリップショーふうの場面も、腹を裂かれて横たわる巨大な生きものの、始末に負えない存在のありように見えてくるから不思議である。太腿のエロチシズムに、魚の脚という怪物的なものを重ねてダブルミーニングを生み出すのが川村流といえるだろう。彼女の作品には、こうした謎が散りばめられている。



(観劇日:2018年3月29日)
<ダンス+音楽>の接近戦──細川麻実子×森重靖宗『愚(おろか)』 北里義之



<ダンス+音楽>の接近戦──細川麻実子×森重靖宗『愚(おろか)』
北里義之


 2008年から2016年にかけ、沼袋の「OrganJazz倶楽部」を会場にして、舞踏の岡佐和香とピアニストの清水一登がホスト役となり、各回、多彩なゲストを迎えるダンス+音楽「たのしいの◎んだふる」が隔月開催されていた。この<ダンス+音楽>シリーズのプログラム作成に関わっていた竹場元彦が主宰する「メノウ東京」の企画のうち、ダンサーの細川麻実子にスポットをあてた公演の3回目が、チェロの森重靖宗をゲストに迎え『愚(おろか)』のタイトルで開催された。今回はダンサーにとってこれまでになく狭いスペースとなる喫茶茶会記が選ばれた。踊り手の背後には縦格子の壁が迫り、立って数歩を歩くくらいという会場での集中したセッション。他の企画でこの場所をすでに経験していたせいか、細川のダンスは、場所の狭さをものともせず、後半になって初めて壁を使ったダンスを見せるなど、前半と後半を通して構成される全体の流れに配慮しつつ、小さな動きにもダンスのダイナミズムを失わない芯のある踊りを踊った。どんな条件下でも踊りが小さくならないのはさすがと思わせる。

 前後半で演奏にメリハリをつけるため、第一部でピアノを弾いた森重は、最高音をヒットしたり最低音をヒットしたり、鍵盤にそっと指の腹を乗せたり、両手を大きく開いて楽器に突っ伏したりと、ピアノを打楽器のように扱いながら、楽曲を演奏するというより、楽器の触れ方によって様々に生み出されてくるサウンドをインスタレーションして遊ぶような、パフォーマティヴな演奏を展開した。上手の壁に向かうアップライトの位置から、ダンサーに背中を向けて演奏することになるため、出だしはそれぞれのパフォーマンスを交代していく形でスタート、進行するに従ってダンスと演奏がしだいに重なっていくという、気配を感じながら共演するスタイルがとられた。森重の演奏スタイルは、まるで背中が独立して踊っているようにユニークなもので、ダンサーがつられて似たような動きをしてしまう興味深い場面も見られた。こうした条件が影響してであろう、セッションの第一部は、細川が受けにまわって踊るような印象があった。ダンサーが床に倒れこんで動かなくなったのを合図に暗転。前半が終了。

 楽器をチェロにかえての第二部は、かすかに奏でられる微音から、特殊奏法でノイズを発生させながら奏でられるメロディまで、さまざまな演奏法を駆使しながら、音楽を次第に大きなものにしていく森重ならではの世界が展開した。瞬間瞬間に全身没入しながら演奏するのが身上の森重だが、このセッションではずいぶん構成感のある演奏をしたと思う。かたや、後半になって一気に攻めに転じた細川は、くりかえされる演奏家への接近と、立ったポジションからのダンスはもとより、膝立ちや足を投げ出しての座位など多彩な展開をみせ、演奏家の前に身体を投げ出すようにして、高低さまざまな関係を取り結びながら共演者にアプローチした。とはいえ、激しい演奏に大きな動きで応ずる場面が、演奏のクライマックスを形成することがなかったのは、そんなふうに動きの対応が単調に、あるいは予定調和的になってきたと感じると、どちらかがかならず方向性を転じ、気合いをずらしていたためと思われる。第二部は、ダンサーが足を投げ出して床にすわると、前にあげた両手の指をふるわせはじめ、次第に肩先から上体へとふるえを拡大してから、右足を左もものうえにあげて両手で抱えたところで終演となった。それぞれのスタイルが組みあったセッションのなかで、後半で演奏に身をまかせて感情開放する踊りが見られたのは予想外だった。つねに冷静かつ理性的なダンサーである細川からもこうした感応力を引き出すのが、森重のチェロ演奏の深みと思う。

(観劇日:2018年3月25日)

振り切れる針のように   ──川村美紀子『12星座にささぐ』第2回「みずがめ座」2018/2/21(fri) 北里義之




 先月、ダンサーの誕生月からスタートしたマンスリー公演『12星座にささぐ』の初回は、山羊が天に昇って星座になったギリシャ神話のいきさつを映像入りで解説したり、ショパンのピアノ曲で踊ったりと盛沢山の内容で、予定された時間を大幅にオーバーする熱演となったが、今回は構成をシンプルにしたぶん、ダンスに集中して見ることができた回となった。水瓶座といえば、ファーストキスをした相手の星座という流れで、自衛隊入隊、逮捕、風俗店店員と波瀾万丈の生活を送っている(らしい)その男性を呼びだして近況をたずねる食事会を決行、その際に収録した会話の録音とビート音楽をサンドイッチにしながら、音楽が流れるたびにダンスを変え、次第に速度と切れのある展開をつけていくというのが基本の内容。

 会話が流れる場面でも、細かい、日常的な動きのような、ダンスになり切らない動きがつけられ、最後には、舞台を半円に囲んで置かれた最前列のざぶとん席をでんぐり返しでまわってスペースを拡大、低い姿勢でくりかえされる床への転倒で踊った。スイッチされる二種の音響の間では、何枚かのシートにメモ書きしたテクストを、周囲の空気を響かせるようなドスの利いた川村節で絶叫したり、デートに持参したお弁当を「じつはそれ私のママが作った唐揚げなんです」と、いまさらながらカミングアウトする場面も。最後には「あれから10年がたった私は、みずがめ座の男と恋に落ちないと決めた」というオチのセリフが用意されていた。星座が地上にたたき落とされてもみくちゃになった印象だが、今後のシリーズ公演では、逃れられない状態で彼女の運命に関わった人たちが次々に登場してくるのかもしれない。

 川村美紀子のダンスや作品をどう理解したらいいのか、実をいうと、私にはまだよくわかっていない。そもそもの話、他人の身体によって踊られるダンスを見ること自体、(複雑な要素がからみすぎていて)半分はわからないと考えておいたほうがいいように思うのだが、それにしてもわからない部分が多い。だから魅力的ともいえるのだろうが、個室に招かれたような至近距離からダンサーを見る月例公演『12星座』を通して、その謎に少しでもせまれたらと思う。「みずがめ座」公演では、ダンスに限られない動きのなかで、そこだけ浮き出したように際立つ身体がふたつ飛びこんできた。

 そのひとつは(1)オレンジ色の縁どりがある、丸くて低いスツール椅子に腰をおろし、怒鳴りつけるような、叫びそのものというべき声を爆発させておこなわれる朗読を越えた朗読、川村のダンスではおなじみの声のスタイルで公演をスタートさせた冒頭部分で、つま先立った両脚の指先が大きく開き、全開になったこと。彼女があの叫びを叫ぶとき、身体は戦闘体勢といってもいいマックスの状態に置かれることがわかる。もうひとつは(2)アニメーションの技法を含む高速度のダンスが踊られる中間部で、一瞬足さばきがスローモーションになったようにゆっくりとなること。これによって高速度の動きがより強調されるのだが、ダンスはそうした対比を踊っているのではないようで、むしろ高速度の動きのベースになる堅固な身体が、速度の隙間を縫って、たまたま動きの表面に浮き出てきてしまったというような印象だった。高速度の動きと、低速の、安定したバイオリズムが並走していく身体の構造は、音楽の即興演奏でもよく見られるものだ。ゆっくりとした身体のバイオリズムが感じられていることが、高速度の演奏やダンスを、正確なもの、必然性のあるものにしていくということなのであろう。

 より大枠の話で、今回もうひとつ気づくことのできた重要なポイントがある。それは川村の身体の指向が、あるマックスから対極のマックスへと振り切れながら動き、反転をくりかえしていくことをダンスにしているという点である。わかりやすさに配慮して、ふたつのマックスを「M衝動」と「S衝動」と仮称してみることにする。このことは身体の使い方はもちろん、作品作りする際のドラマツルギーにも大きく反映され、たとえば、ダンサーがほとんど動くことのなかった『まぼろしの夜明け』(2015年10月、三軒茶屋シアタートラム)東京公演などはその見やすい一例であるし、先頃おこなわれた「異端×異端」シリーズにおける『或る女』(2017年10月、日暮里d-倉庫)でも、古風な「或る女」=祖母の手紙と、若い「或る女」=川村自身からするその手紙へのありえなかった返信という設定で、ほとんど機械的に交代していくふたつのキャラクターをステージに登場させながら、ダンスにおいては反転する身体のありようをステージに乗せていた。今回作品に登場した「みずがめ座の男」に対しても、自身を無にするような恋愛と激しい拒絶とをスイッチさせ、M衝動とS衝動の往復を踊ったと思う。いずれの作品でも、川村固有の身体的特質に発するドラマツルギーといえるだろう。


(観劇日:2018年2月21日)


風を起こし、風となる──喜多尾浩代『そこふく風』特別編♯4 北里義之

 

 「身体事」(しんたいごと)という言葉を造語し、感覚に対してユニークなアプローチを切り開いている喜多尾浩代は、喫茶茶会記を会場にして、美術家や即興演奏家とセッションする「そこふく風」シリーズと、午前9時10分開演という、ダンス公演としては異例の時間帯にスタートするソロ「そこふく風」〜特別編〜を主宰している。茶会記のすべての扉と窓を開け放して初夏に一度だけ開催される「特別編」の第4回が、今年も5月20日(土)に開催された。現在は参加人数を10人に限定しておこなわれているが、なかには案内の詳細を確認せずに訪れる人もいて、今年は14人とやや多めの参加者が集まった。

 

 私が開演から少し遅れて到着したときには、踊りはじめとなる奥の小部屋の開かれた扉から、同室してなりゆきを見守る人の姿が見えた。かたや、縦格子のはまった壁に向けられた椅子がざっと置かれた中央の部屋は、薄暗い照明のなかに沈んでいて、おたがいに距離をとって座る人々が、踊り手が扉の外に出てくるのを待機していた。開けっぱなしの扉をのぞきこむことのできる最前列に座らないと、踊り手の姿は見えないので、ほとんどの人は、奥の部屋の気配を感じとるだけの状態に置かれる。踊り手はとてもゆっくりと動きを運んでいくため、しばらくしてしびれを切らした男性がひとり大きな音をさせて前列に移動すると、それをきっかけに多くの人が座席を移して横一直線にならび、そこまで方向を定めずに滞留していた中央の部屋の空気は、人々の視線がひとつにまとまることで一気に澄んだものへと変化した。驚異的なこの視線の力は、踊り手の身体を見たいという人々の集合的な欲望そのものだった。

 

 奥の小部屋とは反対側にある、表玄関に通じる喫茶室では、環境を支配してしまわないように配慮されたかすかな響きがスピーカーから流れている。奥の小部屋から中央の部屋に出てきた踊り手は、縦格子のはまった薄暗い空間でうごめく様子。部屋の最後尾にならんだ足高の椅子に腰かけた私は、喫茶室側の扉から射しこむ玄関の強い光にさまたげられ、踊り手の動きは影のなかを動く影のよう。小さすぎてなにが鳴っているのかよくわからない音とおなじように、出来事の仔細をつかむことができなかった。ただ、踊りが人々のすぐ眼前に接近する形でおこなわれていることだけは了解することができた。

 

 スピーカーから漏れてくるように流れる音、茶会記の外から響いてくる建て替え工事中のハンマーの響き、自然光にかき消されてしまう実用性を剥ぎ取られた照明の光、そして踊り手の身体を求める人々の視線、これらを受けとめ流れを生み出していく喜多尾の身体事は、すべてこうしたあわいに発生する気配のようなものを「そこふく風」として引き受け、同時に、踊るみずからの身体そのものを「そこふく風」にしていく行為なのではないかと思う。一口に「環境」といってしまうとき、無意識に私たちの身体の外に設定されてしまうものを、「そこふく風」という言葉は、内外の別なく吹き抜けていくひとつの身体として提示しようとしているのかもしれない。

 

 私よりもなお遅れて会場に到着し後方の椅子にすわるふたりの女性、最前列の椅子に接近する踊り手を見て、飛び立つように椅子席の背後に移動する女性、奥の小部屋から出て立ち見する男性などがいるなか、中央の部屋は、椅子がほぼ全面を占めて通路のない状態だった。観客席に接近した踊り手は、椅子と椅子の間に身体をすべりこませ、座る人の身体に触れながら回転するようにして椅子をやり過ごし、座席のうしろへと出てきた。私の目の前をおおうようにして背中向きで立つと、私の膝小僧に背中で触れてから喫茶室に滑り出していく。踊り手の動線を知る「そこふく風」常連の人が、踊りを追って扉口に向かった。

 

 喫茶室に出た踊り手はスピーカーを背にしてひとしきり踊ってから、ゆっくりと玄関から外に出ていく。気のせいか、今年は玄関のすぐ外に立つ時間が例年より長いように感じた。茶会記のある路地に建っていた古いアパートが新築中で、この日は大工が2人ばかり現場を出入りしていた。例年であれば、路地を飛び石づたいに歩きつくす踊り手は、ピンク色のコンクリートが打たれ、強い初夏の日ざしに電線の影が色濃く落ちる茶会記前の空間に立ち、その中央にあいた排水溝のあたりで舞ってから広場の端に腰をおろした。茶会記の2階で営業する店舗に出勤する店員がひとり、地面にすわる喜多尾の傍らを通過していった。最終場面は、半円形になってしゃがんだり立ったりする観客に囲まれて踊るような格好となり、視線に喜びを与えるダンサーとの距離が確保されたためか、面白いことに、茶会記のなかよりずっとステージらしさが出たなかで終演を迎えた。もしかするとこれは、もともと終わりのない身体事に、その場かぎりの区切りをもたらす演劇的な約束事ということなのかもしれない。■

 

(2017年5月26日 記)

北里義之・誰のものでもない感覚、誰のものでもない身体──喜多尾浩代「そこふく風」─番外編─ 公演日:2016年12月2日(金)


 過去におこなわれた「そこふく風」シリーズの夜公演は、美術家のみわはるき、チェリストの入間川正美、おなじくチェリストの森重靖宗との共演で、その場かぎりの即興セッションに終わらない感覚の共振をめざしておこなわれてきた。かたや、午前9時という異例の時間帯を選び、茶会記の窓や扉を開け放しておこなわれる「そこふく風〜特別編〜」では、空間を外へと開くことに重点が置かれ、自由に動きまわれるようにと人数制限された観客と踊り手は、路地にもさまよい出て、場所を吹きわたる「風」を感じるような時間を共有してきた。閑静な住宅街に囲まれた路地の奥で営業する茶会記は、古びた家具調度で室内装飾したり、玄関に「音の隠れ家」のプレートを掲げたりと、人や時間がふきだまっていくような場所作りをコンセプトにしていて、「そこふく風」の「特別編」は、そうした場所のありように正確に対応したプログラムだったといえるだろう。以上をふまえた今回の「番外編」は、空間を開放しない夜公演であり、演奏家との対話もない純粋なソロ公演だった。観客の反応を考えあわせると、この晩の公演は、私たちの身体に起こることにフォーカスするものだったように思われる。

 喜多尾浩代が「身体事(しんたいごと)」という呼び方であらわしている身体へのアプローチにあって、それはそもそものはじめからそうであったというべきだろうが、空間を開放したり、共演者を招いたりしないことで、今回それがより際立つことになった。ダンスをもっぱら踊り手の身体に起こる出来事として、「鑑賞」の対象にしようとするとわからなくなってしまうのだが、本公演を昨今頻繁におこなわれるようになった観客参加型のダンス公演とならべてみると理解しやすくなる。説明がややこしくならざるをえないのだが、喜多尾の身体事とは、身体の感覚をつねに複数形にしておこうとするものであり、あなたと私の間に吹きわたる風のようなもの、風のように所有できないもの、姿も形もないとらえがたいものでありながら、その存在が確実に感じられるものをなかだちにして身体が行為することといえる。端的にいうなら、踊っているのはダンサーであり観客なのだ。しかしながら、受け身の身体のまま観客席に座っている人々の感覚を、内側から励起することは至難の技であり、すべての観客参加型公演が取り組んでいるテーマといっていい。場読みのできないセンスのない観客もいれば、その逆に、場を読みすぎて役割を演技してしまう観客もいる。番外編に集まった観客は、後者の傾向が強かったといえるだろう。

 「そこふく風」の初回からそうだったように、今回もまた、半開きになった楽屋口からは、電球照明に薄ぼんやりと照らし出される控え室が見えていた。かたや、ステージの四隅を照らす明かりはいずれも部分照明で、観客の一方通行の視覚を分散させ、対象を曖昧にぼんやりとさせる。開演時間を過ぎてもしばらく動きはなく、しびれを切らした観客が首を伸ばして楽屋口の奥をうかがいはじめたあたりで、黒いドレスをまとった喜多尾が部屋のなかを横切る影が見え、扉口に姿をあらわした。身体はふたつの部屋の境界領域を越えてやってくる。音楽はない。上下動は使うものの、踊りを生み出すために喜多尾が壁や床に触れることはなく、いわば空気のなかに隙間をさがすようにして動きが生まれてくる。この晩は最前列に並ぶ観客への接近と遠ざかりがくりかえされただけでなく、客席のなかにはいりこんで動く場面も作られた。喜多尾が観客に触れることはないが、たまらずに席を後方に移動する観客がいた。おそらくそれは見るために必要な距離を確保するためだったろう。

 いったんステージに戻った喜多尾は、今度は喫茶室に通じる扉まで客席の通路を後ずさりしていくと、身体の左側を扉につけながらノブを握り、内側にゆっくりと扉を開いていった。隣の喫茶室から流れこんでくる音楽と人の声。扉に身を寄せてしばらくじっとしていた喜多尾はゆっくりとステージに戻り、そこでもすこし時間をとってから終わりの挨拶をした。扉を開けたことを「解散」の合図と受け取った最前列の観客が、挨拶を待たずに手荷物を抱えて席を去りつつ、ステージのなりゆきを見ていた。この晩起こったことは、環境の手助けがないなかで、踊り手からなにかがやってくることを感じつつも、それが誰にも所属しない感覚(そこふく風)を起こす方向には向かわず、踊り手の動きの解釈に横すべりしていくという出来事だったように思われる。触れることで自他の境界は簡単に解消するが、観客に触れるほど近くに接近はしても、けっしてそうすることのない喜多尾の身体事では、観客の視覚による謎解きの欲求を消すことはできないようだった。おそらく観客は、この両極を行ったり来たりすることになるのだろう。■

(2016年12月7日 記)
北里義之・澄んだ目のダンサー──山本晴歌「わたしは、わたしのほねになる」 公演日:2016年12月4日(日)


 大川原脩平とのユニット「ぞうとまめ」の公演が、共演者の急病で中止のやむなきにいたったため、スケジュールを穴埋めする形で、ダンサー山本晴歌にとって初のソロ公演『わたしは、わたしのほねになる』が実現することになった。ダンスの内容は山本がオリジナルに構想し、シーツや椅子など、どこにでもある簡単な小道具を使いながら、踊ることが同時に自分の身体の声に耳をすますことでもあるようなダンスが即興的に踊られた。観客席の椅子は、部屋の中央を広く開けて壁際に置かれ、いつもならホリゾントになる奥の壁の中央には、両脇を一列の椅子がはさむ形で縦長の姿見が立てかけられた。扉口から漏れ聞こえてくる喫茶室のにぎわいをよそに、開場時から部屋の中央に立ったダンサーは、床に広げられた白いシーツの前にたたずんでいた。背後には木製のアームチェアが置かれ、部屋の隅に置かれたアップライトピアノには赤い花束が載っていた。音楽に使われた大谷能生のエレクトロニクス演奏は、山本が参加して6年になるという大橋可也&ダンサーズの作品がもっている前衛的な雰囲気にダンスを近づけていた。

 大橋可也&ダンサーズの公演は何度か見る機会があり、つい先頃、長谷敏司の書き下ろしSF小説をもとにした『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(2016年10月/11月、木場アースプラス・ギャラリー)でも、「Layer 1」でヒューマノイドロボットと踊る山本を見たばかりである。アヴァンギャルドの美学を徹底しながら、舞踏の方法論をベースにクリエーションする大橋作品では、ダンスもふくめ、伝統的な身体観を脅かすような現代の身体状況があぶりだされてくるのだが、舞踏的な質感が強調されはしても、ダンサーの身体は均質化される傾向にあるところから、自分の身体以外に頼るもののないソロ公演は、身体の固有性もダンスを通じた発見の積み重ねの果てにあるという意味で重要だと思う。

 タイトルにあるように、(肉よりも)骨へのアプローチを試みる山本のダンスは、ときに足先をとんでもない方向に曲げたり、前腕で体重を支えながら軽業師のように倒立したりと、アクロバティックな負荷を身体にかけながら、新体操と舞踏の間にあるような、あるいは機械と物質の間にあるような独特な身体感覚を踊って、大きな魅力を放った。機械状エロスとでもいったらいいだろうか、この質感が「Layer 1」に求められたものだったのだろう。シーツにうつぶせになって片足を高くあげたり、シーツを巻きこみながら激しく横転したりと、くりかえしシーツに回帰してダンスにリズムを与えると同時に、アームチェアを使う場面では、顔を部分的におおう白い面をかぶり、椅子に乗ったり床にくずおれたりして、そこだけ演劇的なアプローチをみせた。クライマックスでは彼女のトレードマークである倒立が登場、転倒をくりかえし、何度となく身体を床にたたきつけたすえに立つまでが踊られた。特に印象的だったのはその目である。ダンサーにとっての顔は、ことさらに扱いがむずかしい要素で、顔に布を巻くなど、まるでそれがはじめからないかのようにして踊るダンサーもいるくらいだが、ダンスする山本晴歌の目はまっすぐで、無防備なほど澄んでおり、その目から放たれるエネルギーにさらされるのが心地よいほどだった。■

(2016年12月7日 記)
北里義之 拡張する身体ネットワーク──新井陽子「焙煎barようこ vol.3」with 武智博美 (公演日:2016年11月16日)



拡張する身体ネットワーク──新井陽子「焙煎barようこ vol.3」with 武智博美
(公演日:2016年11月16日)

 喫茶茶会記におけるピアニスト新井陽子の定期公演「焙煎barようこ」は、本年度3回おこなわれ、舞踏の武智博美をゲストにした今年最後の公演「残照の後で after the afterglow」をもってしめくくられた。コンテンポラリー・ダンサーのjouをゲストにした前回の「焙煎」公演(7月20日)は、クレジットになかった南アフリカ出身のギター奏者アンドレ・レンスブルグを加えたセッションとなり、その後「YJAトリオ」として再演する展開をみせている。異質なパフォーマーのネットワークを身上とする「焙煎」の守備範囲は、木村由との交流を皮切りに、ダンスの世界にも視野を広げつつあるようだ。

 上手側の壁に寄せられた茶会記のアップライトの位置では、ピアニストがダンサーの動きを見ながら演奏することができないこと、また音楽のうえでも、即興的な対話をするために、お互いの距離を保つことが必要になるといった事情から、新井の演奏には、これまで共演者とつかず離れずの部分をもちながらセッションするという印象があった。過去のダンスとの共演では、演奏家自身がピアノを離れて小物楽器を演奏したり、自分も身体的に動くという方法でパフォーマンスの拡大を図っていたが、この晩の新井は、これまでとは真逆の方向からブレイクスルーした。公演冒頭、あらかじめボードを外してあった楽器の足もとに潜りこんだ新井は、ピアノ線を直接はじく内部演奏からスタート。これは演奏の趣向でもあったが、同時に、可能なかぎり体勢を工夫して共演者を見つづけようとする努力でもあり、その結果、踊る以上に音をよく聴くダンサーを積極的に触発し、また触発されるような一体的なパフォーマンスが実現したのである。特筆すべきは、博美が床を這いまわる場面で、新井がほとんど狂気の一線に触れながらピアノを鳴らしまくるといった演奏を聴かせたことだろう。こんなにはじけた新井の演奏を聴くのは前代未聞だ。まるで演奏家が消え去り、音そのものと化したような演奏だった。

 武智圭佑と組んでいるノイズ+ダンスのユニット“mangna-tech”では、武智の激しいダンスに、静かな内面の動きを対置してバランスをとることが多い博美だが、このセッションでは、椅子に座って両脚を動かしたり、背後からピアニストに接近したり、照明を外れて観客席の間近に立つと静かに床に沈んでいき、そのまま床を這いまわる動きに移行していくというような、いつになく緩急差の大きなダンスをくりひろげた。黒いヴェールでおおわれた顔には、荷物を梱包するように赤い紐が巻きつけられ、博美の人形めいた動きをさらに不穏なものにしていた。踊りのどこかで顔が解放されるクライマックスを待ったが、その瞬間はとうとう最後までやってこなかった。音を全身で受け止めながらも、動くときは演奏と少しずれながら踊りのポジションを確保していく姿に、即興セッションの強者ぶりをうかがわせた。■

(2016年11月24日 記)
photo by 北里義之  2016/7/20 焙煎Bar ようこ





北里義之 4/29 佐渡島明浩・円池志穂子「有元利夫によせて」〜バロック音楽の調べとオイリュトミー


すでに三年前になりますが、2013年12月21日(土)、佐渡島明浩さんは円池志穂子さんやピアノの照内央晴さんと、やはりこの喫茶茶会記で初めての自主公演「サティとオイリュトミーの夕べ」を開催されています。新たにフルートの奥夕美子さんを招き、夭折の画家・有元利夫[1946-1985]の生涯を、画家が愛したクープラン、パーセル、シェドヴィル、テレマン、ヘンデル、バッハなどのバロック音楽とともにたどる今回の公演も、前回と同様のスタイルをとり、バロック音楽をオイリュトミーで踊る場面と、画家が残した日記や、やはり画家/陶芸家であった妻の容子さんが書いた回想記などを朗読するだけでなく、若き画家を演じる芝居的要素を入れたり、カジュアルな服でデュエットを踊るなどして場面構成する作品になっていました。ふたりの画家の愛情と芸術が、オイリュトミー服を着たソロのダンスと日常的な服を着たデュエットの場面で踊りわけられたように思います。

オイリュトミーを踊る作品すべてがそうであるかどうかはわからないのですが、独特の振付法やシュタイナーの神秘思想を別にすると、ダンスする身体と作品の関係において、オイリュトミー公演というのは、モダンダンスの領域にあるのではないかと思いました。「オイリュトミーでなくてはできないことがある」という佐渡島さんの言葉から、たしかに本作品が通常のモダンで踊られたとしたら、画家の精神性はこのように表現できなかっただろうと思います。きっともっとベタベタとしたものになったでしょう。佐渡島さんがプログラムに書かれた言葉。「彼の日記に描かれている花びらがいつまでも落ちてこないように、彼の想いは今も宙に浮かび、漂っているようです。[有元利夫と容子]二人の想いは、同じ風に吹かれている。そしてどこか、確かに存在するけれども、感じることの出来ない場所で出会っている。」この魂のありように対する畏敬の念は、シュタイナーの神秘性に通じているはずです。それでもなお、身体以前に内容が想定され、(言語・音響の別なく)テクストがあるという点では、モダンな表現図式のなかにあると思います。

いつもはフリーインプロヴィゼーションというよりフリージャズに近い演奏をされている照内央晴さんが、エリック・サティに引き続き、バロック音楽に挑戦するのにも注目されました。前者の即興には、バロック・ヴァイオリンを演奏するバリー・ガイ夫人マヤ・ホンバーガーさんなどの例があり、伝統的な演奏と前衛との間に感性の共通基盤を想定できるように思うのですが、照内さんの場合、どのようなことが彼の内面で起こっているのでしょう。また形式性が優位に立つことはあるにしても、オイリュトミーを踊る身体が、群舞のフォーメーションを離れた個人的身体をもってどのように響きと交感していくのか、それがどのような動きとしてあらわれるのかということにも大きな関心が持たれます。形式と内容の相克ということ自体、モダンダンスの内部に深くわけいることになるのかもしれませんが、ここですべきことはまだたくさんあるように思われます






12/4 喜多尾 浩代:そこふく風 vol.6 with 森重靖宗 part 2

124日(金)には、チェロの森重靖宗さんをゲストに迎えた喜多尾浩代さんの「そこふく風」第6回がありました。前回の「そこふく風」に引きつづき、おふたりの共演は2回目。身体事による即興セッションの試みに一段落のついたこの晩は、阿久津智美さん、横滑ナナさんら「身体の知覚」の新旧メンバー、地元組の木野彩子さん、木村由さん、森下こうえんさんなど、独自に身体の探究を重ねる方たちがたくさん集う濃密な一夜となりました。薄暗い照明を会場のあちらこちらに配し、客席とステージの垣根を最大限に低くしながら、楽屋の扉も開放したまま空気を通わせる公演は、抑圧感のない、広い場所性を感じさせるものでした。喜多尾さんならではの身体事が、別の身体をもつ即興演奏家との共演で成立するかどうかの試みは、ここへきて理想的な形で実現され、サウンドがサウンドではなく、動きが動きではなく、いわばひとつのエネルギーになって身体を出入りしていく様子をまのあたりに感覚することができたように思います。動きと響きがそれぞれに即興的な展開をするのではなく、そのままでいながら場所性を深めていくようなパフォーマンス。即興演奏家の方たちにも体験してもらいたい希有な一夜でした。


 
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