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風を起こし、風となる──喜多尾浩代『そこふく風』特別編♯4 北里義之

 

 「身体事」(しんたいごと)という言葉を造語し、感覚に対してユニークなアプローチを切り開いている喜多尾浩代は、喫茶茶会記を会場にして、美術家や即興演奏家とセッションする「そこふく風」シリーズと、午前9時10分開演という、ダンス公演としては異例の時間帯にスタートするソロ「そこふく風」〜特別編〜を主宰している。茶会記のすべての扉と窓を開け放して初夏に一度だけ開催される「特別編」の第4回が、今年も5月20日(土)に開催された。現在は参加人数を10人に限定しておこなわれているが、なかには案内の詳細を確認せずに訪れる人もいて、今年は14人とやや多めの参加者が集まった。

 

 私が開演から少し遅れて到着したときには、踊りはじめとなる奥の小部屋の開かれた扉から、同室してなりゆきを見守る人の姿が見えた。かたや、縦格子のはまった壁に向けられた椅子がざっと置かれた中央の部屋は、薄暗い照明のなかに沈んでいて、おたがいに距離をとって座る人々が、踊り手が扉の外に出てくるのを待機していた。開けっぱなしの扉をのぞきこむことのできる最前列に座らないと、踊り手の姿は見えないので、ほとんどの人は、奥の部屋の気配を感じとるだけの状態に置かれる。踊り手はとてもゆっくりと動きを運んでいくため、しばらくしてしびれを切らした男性がひとり大きな音をさせて前列に移動すると、それをきっかけに多くの人が座席を移して横一直線にならび、そこまで方向を定めずに滞留していた中央の部屋の空気は、人々の視線がひとつにまとまることで一気に澄んだものへと変化した。驚異的なこの視線の力は、踊り手の身体を見たいという人々の集合的な欲望そのものだった。

 

 奥の小部屋とは反対側にある、表玄関に通じる喫茶室では、環境を支配してしまわないように配慮されたかすかな響きがスピーカーから流れている。奥の小部屋から中央の部屋に出てきた踊り手は、縦格子のはまった薄暗い空間でうごめく様子。部屋の最後尾にならんだ足高の椅子に腰かけた私は、喫茶室側の扉から射しこむ玄関の強い光にさまたげられ、踊り手の動きは影のなかを動く影のよう。小さすぎてなにが鳴っているのかよくわからない音とおなじように、出来事の仔細をつかむことができなかった。ただ、踊りが人々のすぐ眼前に接近する形でおこなわれていることだけは了解することができた。

 

 スピーカーから漏れてくるように流れる音、茶会記の外から響いてくる建て替え工事中のハンマーの響き、自然光にかき消されてしまう実用性を剥ぎ取られた照明の光、そして踊り手の身体を求める人々の視線、これらを受けとめ流れを生み出していく喜多尾の身体事は、すべてこうしたあわいに発生する気配のようなものを「そこふく風」として引き受け、同時に、踊るみずからの身体そのものを「そこふく風」にしていく行為なのではないかと思う。一口に「環境」といってしまうとき、無意識に私たちの身体の外に設定されてしまうものを、「そこふく風」という言葉は、内外の別なく吹き抜けていくひとつの身体として提示しようとしているのかもしれない。

 

 私よりもなお遅れて会場に到着し後方の椅子にすわるふたりの女性、最前列の椅子に接近する踊り手を見て、飛び立つように椅子席の背後に移動する女性、奥の小部屋から出て立ち見する男性などがいるなか、中央の部屋は、椅子がほぼ全面を占めて通路のない状態だった。観客席に接近した踊り手は、椅子と椅子の間に身体をすべりこませ、座る人の身体に触れながら回転するようにして椅子をやり過ごし、座席のうしろへと出てきた。私の目の前をおおうようにして背中向きで立つと、私の膝小僧に背中で触れてから喫茶室に滑り出していく。踊り手の動線を知る「そこふく風」常連の人が、踊りを追って扉口に向かった。

 

 喫茶室に出た踊り手はスピーカーを背にしてひとしきり踊ってから、ゆっくりと玄関から外に出ていく。気のせいか、今年は玄関のすぐ外に立つ時間が例年より長いように感じた。茶会記のある路地に建っていた古いアパートが新築中で、この日は大工が2人ばかり現場を出入りしていた。例年であれば、路地を飛び石づたいに歩きつくす踊り手は、ピンク色のコンクリートが打たれ、強い初夏の日ざしに電線の影が色濃く落ちる茶会記前の空間に立ち、その中央にあいた排水溝のあたりで舞ってから広場の端に腰をおろした。茶会記の2階で営業する店舗に出勤する店員がひとり、地面にすわる喜多尾の傍らを通過していった。最終場面は、半円形になってしゃがんだり立ったりする観客に囲まれて踊るような格好となり、視線に喜びを与えるダンサーとの距離が確保されたためか、面白いことに、茶会記のなかよりずっとステージらしさが出たなかで終演を迎えた。もしかするとこれは、もともと終わりのない身体事に、その場かぎりの区切りをもたらす演劇的な約束事ということなのかもしれない。■

 

(2017年5月26日 記)

北里義之・誰のものでもない感覚、誰のものでもない身体──喜多尾浩代「そこふく風」─番外編─ 公演日:2016年12月2日(金)


 過去におこなわれた「そこふく風」シリーズの夜公演は、美術家のみわはるき、チェリストの入間川正美、おなじくチェリストの森重靖宗との共演で、その場かぎりの即興セッションに終わらない感覚の共振をめざしておこなわれてきた。かたや、午前9時という異例の時間帯を選び、茶会記の窓や扉を開け放しておこなわれる「そこふく風〜特別編〜」では、空間を外へと開くことに重点が置かれ、自由に動きまわれるようにと人数制限された観客と踊り手は、路地にもさまよい出て、場所を吹きわたる「風」を感じるような時間を共有してきた。閑静な住宅街に囲まれた路地の奥で営業する茶会記は、古びた家具調度で室内装飾したり、玄関に「音の隠れ家」のプレートを掲げたりと、人や時間がふきだまっていくような場所作りをコンセプトにしていて、「そこふく風」の「特別編」は、そうした場所のありように正確に対応したプログラムだったといえるだろう。以上をふまえた今回の「番外編」は、空間を開放しない夜公演であり、演奏家との対話もない純粋なソロ公演だった。観客の反応を考えあわせると、この晩の公演は、私たちの身体に起こることにフォーカスするものだったように思われる。

 喜多尾浩代が「身体事(しんたいごと)」という呼び方であらわしている身体へのアプローチにあって、それはそもそものはじめからそうであったというべきだろうが、空間を開放したり、共演者を招いたりしないことで、今回それがより際立つことになった。ダンスをもっぱら踊り手の身体に起こる出来事として、「鑑賞」の対象にしようとするとわからなくなってしまうのだが、本公演を昨今頻繁におこなわれるようになった観客参加型のダンス公演とならべてみると理解しやすくなる。説明がややこしくならざるをえないのだが、喜多尾の身体事とは、身体の感覚をつねに複数形にしておこうとするものであり、あなたと私の間に吹きわたる風のようなもの、風のように所有できないもの、姿も形もないとらえがたいものでありながら、その存在が確実に感じられるものをなかだちにして身体が行為することといえる。端的にいうなら、踊っているのはダンサーであり観客なのだ。しかしながら、受け身の身体のまま観客席に座っている人々の感覚を、内側から励起することは至難の技であり、すべての観客参加型公演が取り組んでいるテーマといっていい。場読みのできないセンスのない観客もいれば、その逆に、場を読みすぎて役割を演技してしまう観客もいる。番外編に集まった観客は、後者の傾向が強かったといえるだろう。

 「そこふく風」の初回からそうだったように、今回もまた、半開きになった楽屋口からは、電球照明に薄ぼんやりと照らし出される控え室が見えていた。かたや、ステージの四隅を照らす明かりはいずれも部分照明で、観客の一方通行の視覚を分散させ、対象を曖昧にぼんやりとさせる。開演時間を過ぎてもしばらく動きはなく、しびれを切らした観客が首を伸ばして楽屋口の奥をうかがいはじめたあたりで、黒いドレスをまとった喜多尾が部屋のなかを横切る影が見え、扉口に姿をあらわした。身体はふたつの部屋の境界領域を越えてやってくる。音楽はない。上下動は使うものの、踊りを生み出すために喜多尾が壁や床に触れることはなく、いわば空気のなかに隙間をさがすようにして動きが生まれてくる。この晩は最前列に並ぶ観客への接近と遠ざかりがくりかえされただけでなく、客席のなかにはいりこんで動く場面も作られた。喜多尾が観客に触れることはないが、たまらずに席を後方に移動する観客がいた。おそらくそれは見るために必要な距離を確保するためだったろう。

 いったんステージに戻った喜多尾は、今度は喫茶室に通じる扉まで客席の通路を後ずさりしていくと、身体の左側を扉につけながらノブを握り、内側にゆっくりと扉を開いていった。隣の喫茶室から流れこんでくる音楽と人の声。扉に身を寄せてしばらくじっとしていた喜多尾はゆっくりとステージに戻り、そこでもすこし時間をとってから終わりの挨拶をした。扉を開けたことを「解散」の合図と受け取った最前列の観客が、挨拶を待たずに手荷物を抱えて席を去りつつ、ステージのなりゆきを見ていた。この晩起こったことは、環境の手助けがないなかで、踊り手からなにかがやってくることを感じつつも、それが誰にも所属しない感覚(そこふく風)を起こす方向には向かわず、踊り手の動きの解釈に横すべりしていくという出来事だったように思われる。触れることで自他の境界は簡単に解消するが、観客に触れるほど近くに接近はしても、けっしてそうすることのない喜多尾の身体事では、観客の視覚による謎解きの欲求を消すことはできないようだった。おそらく観客は、この両極を行ったり来たりすることになるのだろう。■

(2016年12月7日 記)
北里義之・澄んだ目のダンサー──山本晴歌「わたしは、わたしのほねになる」 公演日:2016年12月4日(日)


 大川原脩平とのユニット「ぞうとまめ」の公演が、共演者の急病で中止のやむなきにいたったため、スケジュールを穴埋めする形で、ダンサー山本晴歌にとって初のソロ公演『わたしは、わたしのほねになる』が実現することになった。ダンスの内容は山本がオリジナルに構想し、シーツや椅子など、どこにでもある簡単な小道具を使いながら、踊ることが同時に自分の身体の声に耳をすますことでもあるようなダンスが即興的に踊られた。観客席の椅子は、部屋の中央を広く開けて壁際に置かれ、いつもならホリゾントになる奥の壁の中央には、両脇を一列の椅子がはさむ形で縦長の姿見が立てかけられた。扉口から漏れ聞こえてくる喫茶室のにぎわいをよそに、開場時から部屋の中央に立ったダンサーは、床に広げられた白いシーツの前にたたずんでいた。背後には木製のアームチェアが置かれ、部屋の隅に置かれたアップライトピアノには赤い花束が載っていた。音楽に使われた大谷能生のエレクトロニクス演奏は、山本が参加して6年になるという大橋可也&ダンサーズの作品がもっている前衛的な雰囲気にダンスを近づけていた。

 大橋可也&ダンサーズの公演は何度か見る機会があり、つい先頃、長谷敏司の書き下ろしSF小説をもとにした『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(2016年10月/11月、木場アースプラス・ギャラリー)でも、「Layer 1」でヒューマノイドロボットと踊る山本を見たばかりである。アヴァンギャルドの美学を徹底しながら、舞踏の方法論をベースにクリエーションする大橋作品では、ダンスもふくめ、伝統的な身体観を脅かすような現代の身体状況があぶりだされてくるのだが、舞踏的な質感が強調されはしても、ダンサーの身体は均質化される傾向にあるところから、自分の身体以外に頼るもののないソロ公演は、身体の固有性もダンスを通じた発見の積み重ねの果てにあるという意味で重要だと思う。

 タイトルにあるように、(肉よりも)骨へのアプローチを試みる山本のダンスは、ときに足先をとんでもない方向に曲げたり、前腕で体重を支えながら軽業師のように倒立したりと、アクロバティックな負荷を身体にかけながら、新体操と舞踏の間にあるような、あるいは機械と物質の間にあるような独特な身体感覚を踊って、大きな魅力を放った。機械状エロスとでもいったらいいだろうか、この質感が「Layer 1」に求められたものだったのだろう。シーツにうつぶせになって片足を高くあげたり、シーツを巻きこみながら激しく横転したりと、くりかえしシーツに回帰してダンスにリズムを与えると同時に、アームチェアを使う場面では、顔を部分的におおう白い面をかぶり、椅子に乗ったり床にくずおれたりして、そこだけ演劇的なアプローチをみせた。クライマックスでは彼女のトレードマークである倒立が登場、転倒をくりかえし、何度となく身体を床にたたきつけたすえに立つまでが踊られた。特に印象的だったのはその目である。ダンサーにとっての顔は、ことさらに扱いがむずかしい要素で、顔に布を巻くなど、まるでそれがはじめからないかのようにして踊るダンサーもいるくらいだが、ダンスする山本晴歌の目はまっすぐで、無防備なほど澄んでおり、その目から放たれるエネルギーにさらされるのが心地よいほどだった。■

(2016年12月7日 記)
北里義之 拡張する身体ネットワーク──新井陽子「焙煎barようこ vol.3」with 武智博美 (公演日:2016年11月16日)



拡張する身体ネットワーク──新井陽子「焙煎barようこ vol.3」with 武智博美
(公演日:2016年11月16日)

 喫茶茶会記におけるピアニスト新井陽子の定期公演「焙煎barようこ」は、本年度3回おこなわれ、舞踏の武智博美をゲストにした今年最後の公演「残照の後で after the afterglow」をもってしめくくられた。コンテンポラリー・ダンサーのjouをゲストにした前回の「焙煎」公演(7月20日)は、クレジットになかった南アフリカ出身のギター奏者アンドレ・レンスブルグを加えたセッションとなり、その後「YJAトリオ」として再演する展開をみせている。異質なパフォーマーのネットワークを身上とする「焙煎」の守備範囲は、木村由との交流を皮切りに、ダンスの世界にも視野を広げつつあるようだ。

 上手側の壁に寄せられた茶会記のアップライトの位置では、ピアニストがダンサーの動きを見ながら演奏することができないこと、また音楽のうえでも、即興的な対話をするために、お互いの距離を保つことが必要になるといった事情から、新井の演奏には、これまで共演者とつかず離れずの部分をもちながらセッションするという印象があった。過去のダンスとの共演では、演奏家自身がピアノを離れて小物楽器を演奏したり、自分も身体的に動くという方法でパフォーマンスの拡大を図っていたが、この晩の新井は、これまでとは真逆の方向からブレイクスルーした。公演冒頭、あらかじめボードを外してあった楽器の足もとに潜りこんだ新井は、ピアノ線を直接はじく内部演奏からスタート。これは演奏の趣向でもあったが、同時に、可能なかぎり体勢を工夫して共演者を見つづけようとする努力でもあり、その結果、踊る以上に音をよく聴くダンサーを積極的に触発し、また触発されるような一体的なパフォーマンスが実現したのである。特筆すべきは、博美が床を這いまわる場面で、新井がほとんど狂気の一線に触れながらピアノを鳴らしまくるといった演奏を聴かせたことだろう。こんなにはじけた新井の演奏を聴くのは前代未聞だ。まるで演奏家が消え去り、音そのものと化したような演奏だった。

 武智圭佑と組んでいるノイズ+ダンスのユニット“mangna-tech”では、武智の激しいダンスに、静かな内面の動きを対置してバランスをとることが多い博美だが、このセッションでは、椅子に座って両脚を動かしたり、背後からピアニストに接近したり、照明を外れて観客席の間近に立つと静かに床に沈んでいき、そのまま床を這いまわる動きに移行していくというような、いつになく緩急差の大きなダンスをくりひろげた。黒いヴェールでおおわれた顔には、荷物を梱包するように赤い紐が巻きつけられ、博美の人形めいた動きをさらに不穏なものにしていた。踊りのどこかで顔が解放されるクライマックスを待ったが、その瞬間はとうとう最後までやってこなかった。音を全身で受け止めながらも、動くときは演奏と少しずれながら踊りのポジションを確保していく姿に、即興セッションの強者ぶりをうかがわせた。■

(2016年11月24日 記)
photo by 北里義之  2016/7/20 焙煎Bar ようこ





北里義之 4/29 佐渡島明浩・円池志穂子「有元利夫によせて」〜バロック音楽の調べとオイリュトミー


すでに三年前になりますが、2013年12月21日(土)、佐渡島明浩さんは円池志穂子さんやピアノの照内央晴さんと、やはりこの喫茶茶会記で初めての自主公演「サティとオイリュトミーの夕べ」を開催されています。新たにフルートの奥夕美子さんを招き、夭折の画家・有元利夫[1946-1985]の生涯を、画家が愛したクープラン、パーセル、シェドヴィル、テレマン、ヘンデル、バッハなどのバロック音楽とともにたどる今回の公演も、前回と同様のスタイルをとり、バロック音楽をオイリュトミーで踊る場面と、画家が残した日記や、やはり画家/陶芸家であった妻の容子さんが書いた回想記などを朗読するだけでなく、若き画家を演じる芝居的要素を入れたり、カジュアルな服でデュエットを踊るなどして場面構成する作品になっていました。ふたりの画家の愛情と芸術が、オイリュトミー服を着たソロのダンスと日常的な服を着たデュエットの場面で踊りわけられたように思います。

オイリュトミーを踊る作品すべてがそうであるかどうかはわからないのですが、独特の振付法やシュタイナーの神秘思想を別にすると、ダンスする身体と作品の関係において、オイリュトミー公演というのは、モダンダンスの領域にあるのではないかと思いました。「オイリュトミーでなくてはできないことがある」という佐渡島さんの言葉から、たしかに本作品が通常のモダンで踊られたとしたら、画家の精神性はこのように表現できなかっただろうと思います。きっともっとベタベタとしたものになったでしょう。佐渡島さんがプログラムに書かれた言葉。「彼の日記に描かれている花びらがいつまでも落ちてこないように、彼の想いは今も宙に浮かび、漂っているようです。[有元利夫と容子]二人の想いは、同じ風に吹かれている。そしてどこか、確かに存在するけれども、感じることの出来ない場所で出会っている。」この魂のありように対する畏敬の念は、シュタイナーの神秘性に通じているはずです。それでもなお、身体以前に内容が想定され、(言語・音響の別なく)テクストがあるという点では、モダンな表現図式のなかにあると思います。

いつもはフリーインプロヴィゼーションというよりフリージャズに近い演奏をされている照内央晴さんが、エリック・サティに引き続き、バロック音楽に挑戦するのにも注目されました。前者の即興には、バロック・ヴァイオリンを演奏するバリー・ガイ夫人マヤ・ホンバーガーさんなどの例があり、伝統的な演奏と前衛との間に感性の共通基盤を想定できるように思うのですが、照内さんの場合、どのようなことが彼の内面で起こっているのでしょう。また形式性が優位に立つことはあるにしても、オイリュトミーを踊る身体が、群舞のフォーメーションを離れた個人的身体をもってどのように響きと交感していくのか、それがどのような動きとしてあらわれるのかということにも大きな関心が持たれます。形式と内容の相克ということ自体、モダンダンスの内部に深くわけいることになるのかもしれませんが、ここですべきことはまだたくさんあるように思われます






12/4 喜多尾 浩代:そこふく風 vol.6 with 森重靖宗 part 2

124日(金)には、チェロの森重靖宗さんをゲストに迎えた喜多尾浩代さんの「そこふく風」第6回がありました。前回の「そこふく風」に引きつづき、おふたりの共演は2回目。身体事による即興セッションの試みに一段落のついたこの晩は、阿久津智美さん、横滑ナナさんら「身体の知覚」の新旧メンバー、地元組の木野彩子さん、木村由さん、森下こうえんさんなど、独自に身体の探究を重ねる方たちがたくさん集う濃密な一夜となりました。薄暗い照明を会場のあちらこちらに配し、客席とステージの垣根を最大限に低くしながら、楽屋の扉も開放したまま空気を通わせる公演は、抑圧感のない、広い場所性を感じさせるものでした。喜多尾さんならではの身体事が、別の身体をもつ即興演奏家との共演で成立するかどうかの試みは、ここへきて理想的な形で実現され、サウンドがサウンドではなく、動きが動きではなく、いわばひとつのエネルギーになって身体を出入りしていく様子をまのあたりに感覚することができたように思います。動きと響きがそれぞれに即興的な展開をするのではなく、そのままでいながら場所性を深めていくようなパフォーマンス。即興演奏家の方たちにも体験してもらいたい希有な一夜でした。


 
北里義之・2015/12/1 木村 由:ひかげぼっこ[5回目]


121日(火)には、木村由さんの無音独舞「ひかげぼっこ」がありました。本年4月にスタートした喫茶茶会記の隔月シリーズで、これが通算5回目の公演。この時間帯での開催は今回が最後となり、来年度からは喫茶茶会記の深夜廟シリーズに移行します。ステージ中央と縦格子の壁にうっすらと光があたるだけの照明は極度に光量がなく、白いシーツを床に敷いて乗ったときに影が出たり、角度の加減で天井からの光が顔に入ったりするときにぼんやり表情がわかったりする程度。闇の深さはシリーズ最大のものとなりました。チラシ文にあるように、まさしく「闇間に揺れる蠢く」公演となった今回は、照明が作る影のなかで踊ったこれまでの公演とも少しありようが違い、「ひかげぼっこ」というよりは「闇ぼっこ」の印象。闇のなかで想像力が沸々とします。かたや、公演の後半、縦格子の壁に体当たりしたところからがらっと雰囲気が変わり、壁を擦ったり、下駄を履いたり、手にした枯れ枝で音を出したりという、闇のなかのポルターガイスト状態となりました。これは闇に蠢く前半に対して破壊的な作用があったと思います。環境のなかに身体を置くというシンプルさから出発した「ひかげぼっこ」にとって、踊りにこうした転調や展開が持ちこまれたのも大きな変化と思います。

 
北里義之 筆・新井陽子:焙煎bar ようこ vol.3「ショスタコーヴィチと即興」

11月18日(水)喫茶茶会記で定期公演されている新井陽子さんの「焙煎bar ようこ」、本年度最後となる第3弾『ショスタコーヴィチと即興』がおこなわれました。これまで阿佐ヶ谷ヴィオロンで開催されてきたプログラムを喫茶茶会記に移してのライヴで、前後半にわかれたセットのそれぞれで、ピアノの即興演奏とショスタコーヴィチ『24の前奏曲とフーガ』(1951年)から選曲された楽曲をあわせて演奏するというもの。この日は第13番、第14番、第15番、第16番が演奏されました。即興だけの場合、内部奏法やリコーダーなど小物の演奏で、展開にバリエーションをつけるのを常套手段にされている新井さんですが、ショスタコーヴィチの世界に相対してのクラシック演奏は、即興が身体を意識から解放させる方向に働くのと違って、もっと精神的なもの、イマジナリーな部分が触発されるらしく、意識せずに豊かな表情が出てくるようでした。身体のありようを内側からダイレクトに変えてしまう楽曲演奏は、即興演奏だけの場合よりも、場に身体のバラエティを持ちこむことになって、新井さんの音楽世界を、さらに生き生きと聴かせるものになっていたのではないでしょうか。


北里義之 筆・10/18 木野彩子:一期一会 vol.3 with 森重靖宗


今年、ダンスの木野彩子さんが、彼女自身の学びも兼ねて、喫茶茶会記で定期公演されていた「一期一会」の第3回が、10月18日(日)、チェロの森重靖宗さんをゲストに迎えて開かれました。顔見知りなのにこれまで深く話したことがない、共演したことがないという条件のもとに人選をおこない、試みのセッションに先立って共通のテーマを探すトークをおこない、セッション後にも、いま終わったばかりのセッションを前提にトークするというワークショップ形式の会ですが、観客も自由に対話に参加できるリラックスした内容のものになっています。今回は、森重さんが写真集も出版されているところから、写真と音楽というふたつの領域をまたぐ表現の共通性について一問一答の対話を重ねながらの実演となりました。おふたりのデュオは、櫻井一也さんが主催されている「酔狂即狂」(2014年6月14日)につづいて2度目になります。前回は、木野さんが注文をつけて、コンタクトぎりぎりのきわどい接近戦がおこなわれましたが、今回は、共演者との距離を意識しながらその周囲を回るようなダンス、壁への体あたりをくりかえす木野さんが場所をスプリットしてのダンス(公演後のトークで、自分の影と踊ったと話されました)と、前後半をわけるようなセッションになりました。
 
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