小空間における3密回避を徹底するため、定員15名の観客をさらに2回にふりわけ、細川麻実子のソロダンス『トランスミッション考察』がおこなわれた。公演中も出入口の扉は半開きのままにされ、扉近くでは、隣室の喫茶室でかけられるジャズの音が流れこんで薄く聞こえる状態。各回のパフォーマンス構成も、10分の換気休憩をはさんで20分のダンスを2回にわけておこなうという異例のスタイルをとった。冒頭MCに立った細川は、STAY HOME期間にネットにあふれかえった情報の洪水に対抗して、即興的にヴァリエーションされる動きをいくつか厳選するミニマルな構成をとったと語った。特に俳句のような日本の短詩芸術に影響されたメレディス・モンクの『ボルケーノ・ソング』(1997年)から楽曲が選ばれた後半のセットは、ダンサーが20代に踊った曲でありスタイルだったとのこと。これは細川にとって、単に昔を思い出したというにとどまらず、STAY HOMEの自宅待機中に予期せずやってきたダンス活動の総括という、ある種の原点回帰・原点確認を意味するものでもあったといえるだろう。
身体が次々に変化していく細川のダンスでは、動きの単位をミニマルに選択することは、ローザスのようなミニマルダンスの形式のなかで踊ることを意味せず、ジャズのアドリブのように、踊る自由を最大化するために最小化される振付を意味している。つまり、即興演奏家のように、身ぶりを固有の即興語法として扱い、その積みあげによって独自の即興スタイルを築くのではなく、ジョン・ケージがそうしたように、音楽におけるコンポジションに相当する振付の位相で作品構成する作業が重要なものになっているということだ。この意味で、タイトルにある動力を機構に結びつける意味の「トランスミッション」は、換言すれば、動きを身体に結びつける振付作業のことであり、『トランスミッション考察』は、「自由にとって振付とはなにか?」とダンス的な翻訳が可能であることがわかる。モダンダンスの踊り手にとって、身体の解放はその究極にある目標といえるだろう。細川のダンスも、この自由をもっとも価値あるものとして踊られている。社会がどのような状態にあれ、解放の後になにがやってくるのかを想像する行為が、ダンスによって探究されているテーマのひとつといえるのではないだろうか。
第一セットの冒頭は、左回りに円を描いて歩きながら、ひじをあげて水平に保った左手を、これから歩く方向に先に伸ばして空中でホバーリングさせ、歩く身体がそこまで追いつくという瞬間的な──瞬間の動きを単位にするという意味では「ミニマルな」──動きからスタートした。同じ動きを歩く身体を中心にしてみれば、出した手を引いているようにも見えるという騙し絵的な出だし。出される手の位置は少しずつ変化して、左右に伸ばす動きをはさんだり、右耳の横にあげたりしながら歩速が速まっていく。やがて足裏を見るように右足を跳ねあげ、右手でつかもうとするこれも瞬間のしぐさへと移行、円の動線を乱しながら立ち止まると、後頭部を通して右頬に置かれた左手が、頬のうえでモゾモゾと指を動かす。胸を突き出しながら両足をつま先立って伸びあがる一瞬の姿勢、これは『もののけ姫』のダイダラボッチや飛行する直前のトトロを連想させ、はてしない空の存在を感じさせるところから、とりわけ大きなイメージ転換をもたらした。細川のダンスが持っている気品を凝縮していたことでも忘れがたいポーズ。第一部の後半は、前屈や身体の上下動も入れながら、一貫して床にすわっての動きはなく、最後は、冒頭にあらわれた左手の動きを形だけくりかえすところで終幕となった。
第二セットのダンスは、床や壁を意識して動きを構成していくものだった。膝立ちと転倒をくりかえしながら床を左右に横転する激しい動きと、一直線に仰臥する姿勢でお尻を床にすりつけ、身体をユラユラ揺らす静的な動きとを交互にサンドイッチしていくという、前後半を通してクライマックスとなるような圧巻の場面が展開した。あまり夢中になって回転したせいで、終演後、「目が回る」「気持ち悪い」を連発することになったのは、一晩に二度も公演を連続したためだったようだ。前半のセットとくらべると、個々の場面の独立性が高かったことが大きな違いになっていた。とりわけ3脚ならんだ壁際の腰高椅子を小道具に使った場面は、撮影スタッフが扉の陰から顔に白い小さな光をあてるなか、不自由な姿勢をあえて選択して動けない身体を見せるなど、動きと身体の関係を精密にトレースしてみせた本公演のなかで、演劇的な要素をとりいれたことでひときわ異質なものだった。細川のダンスに、環境への配慮はあっても小道具に頼る印象はあまりないが、これはこれで過去に探究されたものかもしれない。20歳の頃を掘り起こしたダンスということではあったが、個人的には、これまで見ることのなかった細川の一面を知る絶好の機会となった。